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4月「かがくのしょうり」

少し古い話題になるが、自動お掃除ロボットが実用化された。
自由に使える時間が増えるという意味で、家事の負担が軽減されることは、喜ばしいことかも知れない。

生活の中に機械が導入され、人の手を煩わせる事柄が減少しているのは、今に始まったことではなく、
安寧の日常を確保するために、先人たちは汗を流し、その過程において利便性が求められ、現代に至る。

洗濯板が、いつしか洗濯機に変わり、今や乾燥までこなす。スイッチ一つで規定量のお湯を張るようになったお風呂は、一般家庭における、当たり前の姿になりつつある。

家事の負担軽減が、このような形で歓迎されるのは、金銭的な対価を必要としない労働であるからだ。

大量生産を実現した工場の機械化は、産業革命として歴史の教科書に記されているところであるが、
それは同時に、労働の機会を奪うものとして、大きな反発を受けたものでもある。

人の手によって行ってきた労働の機械化は、それによって生計を立てていた人の仕事を失わせた。
もちろん、仕事というものは、人の手で創り出していくものであるから、機械化に合わせた働き方を見つければ済む話だったかもしれない。

ただ言えることとして、人の負担が機械によって軽減されること自体が、
果たして人の暮らしを豊かにすることを意味しているのかどうか、それを考える必要はあるだろう。

現代社会は、貨幣経済を中心として動いている。即ち労働と報酬によって、相互依存の関係にあり、労働の対価である貨幣を流通させることによって、お互いの暮らしを支えている。

生産と流通は、それぞれ人の手によって行われ、どちらに従事するにせよ、
暮らしを支えるものは報酬である。

相互依存の関係にある以上、業種の違いはあれど、暮らしを支え合うものとしての立場は、
本来対等であるべきだが、実際のところは、そうではない。

生産者から市場に商品が出回るまでには、幾つかの工程を経る。
そこには必ず人の手が介在し、その度に人件費が発生する。

直販売というスタイルは、生産者が直接利益を得る方法であり、中間マージンは発生しないため、売る方も買う方も、生産額に見合った対価のやり取りで貨幣を動かすことができる。

しかし、多くの消費者がそうであるように、何かを購入するには、マーケットを通す。
マーケットを通すには、商品の質が厳しく問われることになる。

品質の劣る商品が売り物にならないというのは、理に適っていると思われがちであるが、
品質の基準とはそもそも何であるか。

食品ではないものを食品として売ることは言語道断であるとして、
曲がったキュウリや豊作のキャベツが廃棄されるのは、果たして正常だと言えるだろうか。

市場価格というものがある。
需要と供給の比率によって価格は変動することになっている。

生産者の暮らしを守るためには、生産に要した費用を回収できる程度の利益を上げることが必要である。
しかし、それを実現するためには、途中に介在した人への報酬も計算に入れなければならない。
消費者である私たちが、マーケットに支払っている対価には、これらの金額が含まれている。

豊作のキャベツが無情にも廃棄されるのは、過剰供給によって市場価格が下がり、生産者が守られないからに他ならない。とは言え、自然物相手であるから、豊作の年があれば不作の年もある。

ビニールハウスや化学肥料によって、人は農作物をコントロールできると考えた。

これが大きな間違いであるのだが、コントロールできると思っているから、多ければ捨て、少なければ作れば良いなどという考えに陥り、とある乳製品の価格を跳ね上げたことは記憶に新しい。

曲がったキュウリはどうか?

これは消費者の意識の問題である。形の良い野菜とそうでない野菜の違いは、実は見た目だけではない。
それは栄養価ではなく、使われる化学肥料の量である。

化学肥料と言うと抵抗感が少ないかも知れないが、化学肥料は農薬である。

エコロジーの少し前は健康ブームがあった。食の安全ということは、いつの時代にも重要な問題であるが、
その健康を前にして形の良い野菜を選んだのは、他でもない私たち消費者である。

売れるものを作らなければ、生産者の暮らしは成り立たない。

売れるもの、即ち市場価値の高いものは、どのように導き出されるのか?

実際に売れているもの、つまり、私たちが買うものによって決められるのである。

広報という仕事がある。これは消費者の必要感をあおるものである。
新しい市場を開拓する上では必須であるものの、長い目で見たときに、社会全体にとって有益なものであるかどうかを、私たちが見極めなければ、誤った市場を形成することにもなる。

先に流通と書いた。

生産者と消費者は相互依存の関係にある。正常な市場であれば、双方の暮らしが守られるが、誤った市場が形成されれば、暮らしの基盤が崩壊する。

産業革命が労働の在り方を変化させたように、形成される市場は、既存の価値観に変化を強いる。

機械化に伴って、家事の負担が軽減されたと先に述べた。

工場の機械化は大量生産を可能とし、多くの物資について消費者への低価格供給を実現した。
では労働者の負担は軽減されたのか?

市場は競争の場でもある。消費者の必要感を巡って、各企業は努力する。
努力と言えば聞こえは良いが、品質の向上と合わせて流通速度の上昇も目指し、
結果として、労働者の負担は軽減されない。

流通速度と言えば、某ファーストフード店やコンビニエンスストアに於ける食品の廃棄が思い起こされる。

流通という観点から見れば、消しゴムもお握りも同列であると、彼らは教育されている。

あくまで商品を提供して貨幣を流通させるのが目的であって、必ずしも食品を売っている訳ではないというのが、その企業理念なのだろう(食品ですらないという話もある)。

ここで問題にするのは、倫理的なことではなく、流通の先に人は存在するのか、ということである。

貨幣経済を中心として、私たちの暮らしは成り立っている。
ならば、貨幣の流通が活発である程、暮らしは豊かであると言えるのだろう。

しかし、本当にそうだろうか。

確かに市場で商品がよく動けば、必然的に貨幣が回り、誰もが暮らしを豊かにしていくことができるだろう。
ところが実際には、偏って回転している。

自由競争である以上、多少の偏りは仕方がないが、今や大手企業の独占状態である。

私たちが利便性を求め、それに答えられるのは、資本のある企業であった。

勿論、人材によるところも大きいだろうが、彼らは生産者ではない。あくまで流通を担っているだけである。

生産者の顔が見える販売というものが、食の安全を見直す際に導入され始めた。
それでも、多くの消費者にとって、生産者との距離は遠いままだ。

マーケットの介在は、流通の窓口を広げはしたが、暮らしの価値観を曲げる力も併せ持つ。

主食である米の消費量が減り、代わりにパンの消費量が上がっている。

単に生活スタイルの変化と言ってしまえばそれまでだが、
家事として米を炊くこと自体、既に負担となっているということである。


機械化によって、家事の負担が軽減されたと、最初に述べた。


汗を流した人なら分かることでも、汗を流すこと自体を知らなければ、価値は分からない。

また、人は慣れる生き物である。

機械が導入された過程を知らず、存在が当たり前の状態に生まれ育ったとしたら、
負担が軽減されたことに感謝することさえないだろう。

快適な暮らしが当たり前であれば、その価値に気付くことは難しい。


家事を必要としなくなったとき、人は何をして暮らすのだろうか?


テレビが導入されたとき、時の首相をして、一億総白痴化と言わしめた。
今はそれがインターネットに形を変えている。

大衆は愚かな方が治め易いだろうけれど、
溢れる情報から悪戯に刺激を受け、一生を一消費者として費やすならば、
それは人として豊かな暮らしだと言えるだろうか?

運転を必要としない自動車が、間もなく実用化を迎える。
人と違い、常に正確な判断で走行する、安全な乗り物である。

これらは人の作り出したものだが、それによって人の暮らしが安全に維持されるのならば、
科学が勝利した相手は、人であると言えるだろう。

何とも皮肉な話である。
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