SSブログ

6月「きょういくとわたし」

県内有数の進学校に青春を費やした私にとって、勉強とは知識の詰め込みであった。

自慢にもならないが、義務教育の間はそこそこ点数を取れたので、自分の力量を見誤ったのであろう。
ランクの高い学校を受験したのが運の尽きである。

なるほど合格はした。
しかし、点数を取れる人間の集まる中に於いて、私は底辺であったのだ。

カリキュラムが受験対策で組まれていて余裕がなく、
元々マイペースなところに思春期特有の不安定さも手伝って、成績は瞬く間に転落した。

時間を掛ければ理解できたかもしれないが、授業進度について行けなかったのである。

校風としては、進学校を名乗る以上、大学への高い進学率を守る必要があり、
成績上位者を中心に授業が進められる傾向にあった。

下位者への救済措置として、再試験の機会が常時用意されており、
昼休みや放課後はそれらの列に加わることになったのだが、
同時進行で授業は次の項目へと進んでいくのである。

今から思えば、成績の悪い生徒を抱えた先生方も大変だっただろうが、
全ての授業に於いてそうであったから、勉強が楽しいと思えたことは一度もなかった。

面白いわけがない。

それらは全て試験の為の勉強であって、自分の興味に基づく学習ではなかったからである。

この土地に進学校が建設されたのは、市民からの強い要望による。

都心からは遠く離れ、これといった特産品もない町から、優秀な生徒を世に送り出したい。
そんな願いから作られたようだ。

実績を作らなければならなかった初年度には、教師も生徒も大変な思いをしたと聞くが、
進学率というのは数字が全てであるから、人間味がどうこうということは言っていられなかったのであろう。

何かを探求するということではなく、受験に必要な項目を把握したり、
試験における解答のパターンを掴んだりすることが重視された。

これらのスキルは、卒業後、自身が求めて受けた各種試験に於いて効力を発揮したから、
全くの無駄足ではなかったと今では思えるが、詰め込んだ知識の方は、さっぱり残っていない。

あくまで受験用の暗記であり、興味をもって学んだものではなかったからだとはっきり言える。

当時は「好きになれ」と言われたものだが、
何が面白いのか分からないものに興味を抱こうと思ったら、それなりの導入が必要である。

試験勉強も学習の一形態であるから、学ぶ項目の面白さが分かって取り組んでいたら、
試験勉強という枠を超えた学習に繋がったであろうが、そのような指導は、残念ながらなされなかった。

向き不向きと言って片付けることもできるが、
興味を抱かせるような導入があれば、進学率以上の何かを生み出せたのではないかと思う。

教育の目的は次世代の育成、即ち未来を語ることにあると私は考えている。


未来を生きるのは、当然ながら教育をしている側ではなく、教育を受けた側である。


「言われたことしかできない」という批判が、若い世代に対して向けられることがある。

古い世代にとっては、若い世代とはもっとアイデアを出し、アクティブに行動するものだという
期待感があるのだろうが、そこには時代性という視点が欠落している。

興味に基づいた学習を極めた人は、優れた哲学を持って生きるが、
受験勉強に学習を費やした人は、何事にも既に正解があることを前提に行動する。

古い世代がもっている知識を、若い世代がもっていないのはある意味当然なのだが、
それを踏まえて「勉強不足」と、アイデアを切り捨てることは意外とよくある。

知識があるに越したことはないが、大切なのは着眼点である。

従って協力関係が築かれてしかるべきなのだが、
古い世代が正解を握っていると考えている若い世代には、それを求めることが難しい。

更に付け加えるならば、世代が若くなればなる程、受け取ることとなる情報は膨大になる。

黎明期には作り出す苦労があり、作り出したものは時代に合わせて改良されていく。
その為にはそれらを引継ぐ必要があるが、引継いだ世代もまた、新しい何かを作り出す。

生み出す苦労は評価に値するが、生み出し続けられた後始末まで考えている人は少ない。

引継いだ財産を精選する能力をもった人も時にはあるが、
多くは訳も分からないまま伝統として積み上げていくから、世代が若くなる程背負うものが多くなる。

初めから受け取る情報が多過ぎて、それらを咀嚼しないことにはアイデアなど出せないのだ。
まさに言葉の通り、言われたことしかできない程、余裕をもてないのである。


教育とは未来を語ることだと先に述べた。その未来を語るべき大人に、今は余裕がない。

余裕のない人間は、どうしても視野が狭くなる。
はっきり言ってしまえば、目の前のことしか興味をもてなくなる。

子どもは親を見て育つものであるから、近視眼的な人が増えることとなる。

教育現場で環境問題を教えている人物が、
プライベートでは、さして注意を払っていないなど、よくある話である。

より正確に言えば、払っている余裕さえもつことができないまま、労働に振り回されているのである。

教育のニーズは本来、社会を担っていく次世代にこそ存在する。
現代社会の間違いは、現役世代のニーズに基づいて教育機会が考えられているところでる。

投資として考えるなら、次世代が暮らす未来に対して教育はなされるべきなのだが、
実際には世代が第一線を退いた後、自分たちの暮らしを支えさせるためのものとして
市場が形成されている。

興味に基づいた学習こそ、学びとして定着する。そのために教育のニーズは存在する。
それが、古い世代の価値観に支配されたなら、興味の幅は大変に狭められてしまうだろう。

豊かな未来に繋がる教育とは、寛容さの上に成り立ち得る。

次世代の自立を願って止まないのは、古い世代にとって至極当前のことであろうが、
果たすべき役割を誤ってはいけない。


退いた我々は主役ではない。



杖である。



知恵を貸し、支えることはあっても、



行き先を決めるのは彼らなのだ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。