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9月「じそんしんとわたし」

「そんなもん返さへんわ」

とある行事のため、郊外の公園へと出掛けたときの話である。

市街地から離れた、自然に恵まれた場所であり、お天気の良い日に過ごすには心地よく、
週末には家族連れで訪れる人も少なくない。

今回は、親子で園内を散策し、自然と触れ合うことが目的で、
私たちは登山コース内に、行き先を示す矢印などを設置していた。

親子で参加できるように、この行事は週末に行われている。

時期としても丁度良いので、同じ日に行事を企画する所も少なくなく、
この日も別の会の職員が、私たちと同じように準備をしていた。

直接の関わりこそ少ないが、大人同士のことであり、何より
子どもたちが楽しめるようにという理念は共通であるから、
お互いに困らないように場所を調整して準備を進めていた。

先方は、私たちと丁度逆周りのコースを予定していたので、
出会った場所からは、お互いに別の方向へと分かれることになった。

その途中で拾った、マジックペンについて、
今回の企画担当者が言い放ったのが、冒頭のセリフである。

必要なものは当然、こちらでも準備していたが、
打ち合わせの時点で、マジックペンは数に入っておらず、
山に入る時点でも、持っていくものは確認済みであった。

にも関わらず拾ったペンを持ち去ったのには、
別の会が同じような企画をしていたことから、間違えのないようにとその場で話した際に、
一部の掲示物に自分たちの会の名前が書かれていないことを担当者が気にしたことにある。

準備の段階で、その場に職員が立つことは決まっており、
回収までの段取りも含めて了解済みであったから、
何故今になってそのようなことを言い出すのか不思議ではあったが、
自分たちの持ち物に名前を書いておくに越したことはないだろう。

盗難されるような代物でもないが、公共の場を借りて企画している以上、
所在を明確にしておく責任はある。
準備の段階でそこまで想定できなかったのは、私たちの責任である。

そんな折に、私たちは一本のマジックペンを拾った。

先ほど出会った会の方の掲示物のほぼ真下に転がっており、
散策で訪れる人が落とすような物ではないという状況から考えると、
先方の持ち物であることは、ほぼ間違いがない。

一般的に考えれば、落し物として持ち主に届けるか、
先方の掲示物の近くに置いておくところである。

当然、そのようにすると私は考えたが、
「使いたいと思っていたから丁度良かった」と言ったのが、今回の企画担当者である。

偶発的な状況で救われた、ということは、稀にある。
たまたま通りかかって、手に入れた。そういうことはあって良い。

しかし、今回の状況をそのように解釈して良いかと言えば、非常に疑わしい。

第一、職員がその場に立つという理由で、それらの掲示物に名前を書く必然性は、
打ち合わせの時点で否定されていたのだ。

偶然拾った物を手に入ったと言い、尚且つ必要もないのに使えば、
それは横領である。

拾った時点で「きっと先方が落としたものだろう」「近くに置いておこうか」という話題になったのだが、
使うと言って聞かないので「後で会ったときに返しましょう」とまで譲ったものの
「そんなもん返さへんわ」と言う返事が返ってきたのである。

世代間ギャップというものだろうか。或いは地域性というものかも知れない。

企画担当者とは以前から面識はあるものの、今年の人事で初めて同じ職場になったから、
人間性までは把握していなかった。

「マジックペンは消耗品。向こうも気にしないだろう」そんな風に思っているのだろうか。
或いは、拾ったら自分の物とでも考えているのだろうか。

子どもを指導する立場にありながら、そんな考えを持っているとしたら大問題である。

一昔前の世代の人間だから、権利意識が薄いのだろうか。
「返さなくていいんですか?」と尋ねたら、「そんなものはご愛嬌」だと返された。

私は部署が違うため、今回の行事について、企画からは参加していない。
ただ、職場の人員が限られている為、行事の開催に当たり、
補助として加わっているに過ぎない立場である。

開催時刻が迫っていることもあり、それ以上の追求は避けたが、
行事終了後に出会っても、結局返却せず、そのまま持ち去っていた。

ただ、後で先方とすれ違った際には「会うと思っていなかった」とでもいうように、
当惑したような表情を見せていたのが印象に残っている。

「言い出した以上、後には引けない」という言葉がある。
自分の言った言葉に対する責任を示す真摯な態度、といったところだろうか。

何を言ったかにもよるが、与えられた状況に対する意思表示をしたなら、
それを実現する覚悟が問われる。

実際には、状況の解釈を誤っていることも多く、
そこで無理を通して強硬姿勢を批判されたり、逆に方向転換して弱腰だと批判されたりするのだが、
意思表示をする以上、批判はつきものである。

批判を受けることも含め、全てを謙虚に受け止め、柔軟に対応できる人物に対し、
古代中国では「君子は豹変する」と言った。間違いを認めたなら、正すのが本当である。

さて、企画担当者の話に戻る。

彼女は拾ったマジックペンを自分の物とし、同僚から忠告を受けても譲らず、
持ち主とすれ違えば顔色を変えた。

忠告に対する返答から、この人物には罪悪感と言うものが無いのだろうかと思ったが、
そうではないらしい。

しかし、先の態度からすると、持ち去ったこと自体ではなく、
持ち去ったことを持ち主に知られることを恐れたようである。

つまりこの人物は、相手が困るかも知れないということには関心が無く、
我が身の保身が第一なのである。

他人の持ち物を持ち去ったことは、同僚である私たち全員が知っている。
しかし、窃盗自体に罪悪感を持たない彼女は、
直接の被害者ではない私たちへの背徳感を感じない。
ただ盗んだと相手に知られることを恐れるのみである。

マジックペン一本のことで、訴訟が起こるとは考えにくいが、
私たちの行動は全て、組織の態度として見られるのだという自覚に欠けている。

忠告を何度も受けながら、何故受け入れることが出来ないのか。
受け入れないというより、かわすと言った方がしっくりくるかも知れない。

別のミスの指摘を受けたとき、対処こそしたものの
「準備はしてあった。伝えておくのを忘れていた」と言っていたから、
自身に責任の矛先を向けられることに、耐えられないのかもしれない。

叱られ過ぎた子どもは、自分の心を守る為に、嘘を吐くようになるという分析がある。

背景には「分かってもらえない」「聞いてもらえない」「褒められない」という低い自己肯定感があり、
叱られる程に自分の価値が脅かされるため、叱責そのものを回避する為に嘘を吐く。

年齢を考えると、そこに原因を求めるのはどうかと思うが、ミスに対する態度から推察すると、
これまでの人生に於いて、比較されたり叱責されたりすることが多かったのだろう。

社会的な責任を自覚する以前に、自分の価値を守ることで精一杯なのかも知れない。

そのまま年齢だけを重ねれば、更に立場は苦しくなるが、
聞き入れる余裕が無い以上、手を差し伸べることは難しい。

忠告を聞き入れない大人は意外と多く、一見身勝手に思えて付き合いにくいが、
年齢と共に柔軟性を失う自覚から、諦観に至っている為であり、実際は苦しんでいることが多い。

社会人である以上、未来を担う子どものモデルとして、
自覚と責任が求められるところであるが、自尊心を欠いた人物には難しいだろう。

後手に回った感は否めないが、子どもを守る為に、
年齢に囚われず、お互いを受け止める姿勢が必要なのかも知れない。
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