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10月「わごむとわたし」

束ねるのに丁度良いと、輪ゴムを使っていた。

一口に輪ゴムと言っても、幅や長さが異なる。当然、負荷が掛かった際の耐久力も異なる。

長さが同じで、幅が異なる輪ゴムを同じ力で引っ張ったら、狭い方が先に切れるのは自明の理である。
しかし私たちは、どちらも輪ゴムだと言って、同じ負荷を掛けがちである。

採用条件に置き換えてみよう。

「○○という資格を持っている」「○○の試験を通過した」と言った、一定の基準を満たしていれば、
学歴や職歴は考慮されるものの、同じ条件下で働くことになる。

さて、仕事量が均等に与えられたとしよう。

満たした基準は同じだったかもしれないが、
余裕をもって満たした人もいれば、ぎりぎり満たした人もいる。

仕事の速い人、遅い人、気を配る人、合理的な人と、個性は様々にある。

単に仕事を振り分けるなら、個性に見合った内容でとなるのが理に適うのだろうが、
将来を見据えた教育を含むなら、ある程度の負荷が必要になる。

人は学習することで、人材として成長していくものだからだ。

しかし現在、この負荷が問題となっている。

同じ時間内で多くの成果を上げることが、昨今は重視されている。
その条件を始めから満たす人は少ないが、仕事を覚えることで近付いていくから、
意欲のある人は自ら求めて覚えるだろうし、
採用者側としても、将来の為に学習機会を多く設けるだろう。

そこで問題だが、仕事で必要なスキルを個人負担で獲得するのが良いのかどうか。

仕事の対価として得た給金をどう使うかは、個人の裁量である。
従って、資格取得に費やしても良いし、趣味に費やしても良い。

この国で自立した生計を立てている人は、自身さえ養うことができれば、何をしても良いのだ。

当然、スキル獲得に費やした人は会社内における昇進の機会に恵まれるだろうし、
そうでない人は、プライベートの充実が図られるだろう。

どちらの道を選ぶかは、まさに個人の考え方次第である。

そこで問題になるのは、求められる仕事量である。

勤務時間内に成果を上げるなら全く問題ないのだが、
どんな力量を基準として設定されているのかである。

ある社員にとっては簡単な仕事でも、
別の社員にとっては負担であるなどということは、非常に良くある。

そこは経営者の裁量なのだろうが、実際のところ、
基準を満たして採用されたのだから、このくらいはやって当然という節がある。

一部の優秀な社員による成果が根拠となって仕事量が増大しているのだろう。

同じ基準を満たして採用されている中の一人ができたのだから、
他の者も見習うように、と言ったところだろうか。

努力の有無がどうこう言う前に、
その一人にとって、採用基準は簡単なものであったに違いない。

私はノルマの設定を、成績の平均に求めることが良いとは決して思わないが、
努力目標は必要だと思っている。

仕事に対する責任を自覚するには、指標が必要だからだ。

しかし、どう考えても時間内に終わらない量が設定されている現状はどうか。

中途退職者を見込むのは通例だが、それにしても多過ぎる。

「根性が足りない」と言って切り捨てる人間も一部にはいるが、
足の早い者ばかり取り上げて、幻想でも見ているのではないだろうか。

上ばかり見上げて足元を掬われる未来が予想される。

生前どれ程優れていても、千切れた輪ゴムはゴミになる。

人を生かす経営に、心掛けたいものである。
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