12月「かちかんとりきりょう」
一言二言話しただけで、人となりが見えてくる。そんな経験はないだろうか。
人は年齢を重ねると、価値観が固定化される傾向がある。
頑固になる、と括ることもできるが、その根っこにあるものによっては、洗練された、となることもある。
出張に車で行くかバスで行くかと言う話題になった。
車が良いというAさんは、自分のペースで行けるし、
バスは時刻表が読めない、乗換えが難しい、と、その理由を述べた。
バスが良いというBさんは、時間の見通しがもてる、運転の負担が無い、と、その理由を述べた。
どちらの言い分も、成程筋が通っている。
Aさんは、公共交通機関を利用したことが殆ど無い。
経験が少ない分、たまに利用した際の失敗は多く、それ故に、不安も大きい。
慣れた車を好むのも尤もである。
Bさんは、市内のバスは勿論のこと、基本的に公共交通機関を利用して生活している。
当然ながら利用経験が多く、路線をほぼ把握している上、
初めての場所であっても、地図と時刻表を用いて対応することができる。但し、運転は全くできない。
目的地に安全に着くことを考えれば、それぞれにとって慣れた方法が良いに決まっているが、
共通して言えるのは、経験の少ないことは、それだけで敬遠されると言うことだろう。
自分の力量を知れば、人は己に見合った手段で生活を組み立てていく。
従って、価値観が異なるのは自然の流れなのだ。
しかしながら、人は己の価値観を通じて世の中を眺めるので、
無自覚のうちに、自分の価値観を相手に押し付けることがある。
理に適った内容で説得するなら可愛げもあるが、
自分がそうされたから、とか、慣習に従ってなど、そこに主体が存在しない場合、
双方にとって、相手を受け入れることは難しい。
Aさんの価値観は、車に乗ることが当たり前なので、Bさんを「車に乗れない、劣った人」と考えている。
当たり前のことが出来ないのは恥ずかしいので、Aさんはこれからも車に乗り続ける。
一方、Bさんの価値観は「車に乗らない」ことなので、
Aさんを「公共交通機関を利用しない、考えの浅い人」と考えている。
Aさんが地図や時刻表を読む努力を怠っているとも考えている。
世の中が大きく変わったので、どちらが正しい、ということはない。
ただ、必要性と流行を見誤ったとき、人数が多いという理由だけで、
集団が個人の価値観を捻じ曲げることはよくある。
脳に柔軟性がある場合はまだ良いが、ただ周囲に合わせていただけの人が年齢を重ねると、
やっぱり周囲に合わせることになる。
また、確固とした価値観を持ち合わせていた場合、周囲の理解に支えられたかどうかが鍵になる。
一人でも平気な人は、集団の中で浮いてしまうリスクを負う。
しかし、本人が平気なので周りの人の価値観が問われることになる。
一方、常に多数派に属していたい人の場合、確固とした己自身が乏しい分、
如何に回りに合わせるかに躍起になるところがある。
そこで問われるのが、個人の価値観である。
相手に助言するとき、人は、自分が良いと思う方法を挙げる。
その方法を良いと思う根拠は、大抵の場合、教える側の個人的な体験である。
故に、AさんとBさんでは、移動方法に対するイメージが全く異なる。
移動距離と掛かる時間、料金、体力等、
冷静な情報に基づく考えが、雑談の場に現われることは稀であり、
相談した相手の、人となりに触れることになる場合が殆どである。
多数派に寄り添って来た人物の場合「皆がもってるから」と、
必要性も吟味せず、形だけ合わせて暮らしている場合がある。
故に、それ以上経験が広がることは勿論、助言内容が豊かになることもない。
年齢を重ねる程成長できるのだとしたら、強い自己をもっていることが条件かもしれない。
人は年齢を重ねると、価値観が固定化される傾向がある。
頑固になる、と括ることもできるが、その根っこにあるものによっては、洗練された、となることもある。
出張に車で行くかバスで行くかと言う話題になった。
車が良いというAさんは、自分のペースで行けるし、
バスは時刻表が読めない、乗換えが難しい、と、その理由を述べた。
バスが良いというBさんは、時間の見通しがもてる、運転の負担が無い、と、その理由を述べた。
どちらの言い分も、成程筋が通っている。
Aさんは、公共交通機関を利用したことが殆ど無い。
経験が少ない分、たまに利用した際の失敗は多く、それ故に、不安も大きい。
慣れた車を好むのも尤もである。
Bさんは、市内のバスは勿論のこと、基本的に公共交通機関を利用して生活している。
当然ながら利用経験が多く、路線をほぼ把握している上、
初めての場所であっても、地図と時刻表を用いて対応することができる。但し、運転は全くできない。
目的地に安全に着くことを考えれば、それぞれにとって慣れた方法が良いに決まっているが、
共通して言えるのは、経験の少ないことは、それだけで敬遠されると言うことだろう。
自分の力量を知れば、人は己に見合った手段で生活を組み立てていく。
従って、価値観が異なるのは自然の流れなのだ。
しかしながら、人は己の価値観を通じて世の中を眺めるので、
無自覚のうちに、自分の価値観を相手に押し付けることがある。
理に適った内容で説得するなら可愛げもあるが、
自分がそうされたから、とか、慣習に従ってなど、そこに主体が存在しない場合、
双方にとって、相手を受け入れることは難しい。
Aさんの価値観は、車に乗ることが当たり前なので、Bさんを「車に乗れない、劣った人」と考えている。
当たり前のことが出来ないのは恥ずかしいので、Aさんはこれからも車に乗り続ける。
一方、Bさんの価値観は「車に乗らない」ことなので、
Aさんを「公共交通機関を利用しない、考えの浅い人」と考えている。
Aさんが地図や時刻表を読む努力を怠っているとも考えている。
世の中が大きく変わったので、どちらが正しい、ということはない。
ただ、必要性と流行を見誤ったとき、人数が多いという理由だけで、
集団が個人の価値観を捻じ曲げることはよくある。
脳に柔軟性がある場合はまだ良いが、ただ周囲に合わせていただけの人が年齢を重ねると、
やっぱり周囲に合わせることになる。
また、確固とした価値観を持ち合わせていた場合、周囲の理解に支えられたかどうかが鍵になる。
一人でも平気な人は、集団の中で浮いてしまうリスクを負う。
しかし、本人が平気なので周りの人の価値観が問われることになる。
一方、常に多数派に属していたい人の場合、確固とした己自身が乏しい分、
如何に回りに合わせるかに躍起になるところがある。
そこで問われるのが、個人の価値観である。
相手に助言するとき、人は、自分が良いと思う方法を挙げる。
その方法を良いと思う根拠は、大抵の場合、教える側の個人的な体験である。
故に、AさんとBさんでは、移動方法に対するイメージが全く異なる。
移動距離と掛かる時間、料金、体力等、
冷静な情報に基づく考えが、雑談の場に現われることは稀であり、
相談した相手の、人となりに触れることになる場合が殆どである。
多数派に寄り添って来た人物の場合「皆がもってるから」と、
必要性も吟味せず、形だけ合わせて暮らしている場合がある。
故に、それ以上経験が広がることは勿論、助言内容が豊かになることもない。
年齢を重ねる程成長できるのだとしたら、強い自己をもっていることが条件かもしれない。
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