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2月「たすうけつとわたし」

特定秘密保護法が可決された。

情報漏洩に対する処罰対象が、今後どこまで拡大していくのか気になるところだが、
賛成多数で可決されたところに問題の根幹がある。

一票の格差が叫ばれて久しく、選挙そのものの真偽が疑わしい昨今だが、
それでも投票したのは国民である私たちであり、
国会の現状に対する責任の一端はあると言えるだろう。

2005年の自民党圧勝の呪いは、政治家ではなく、私たちの意識そのものに原因がある。

多数決の怖いところは、同程度の意識レベルの人間が、ある社会に占める割合が多ければ、
それが正義と見なされるところである。

先日、不注意に因る事故か、或いは不審火かは分からないが、
一人暮らしの方が焼死体で発見された。

近所の人の話によると、日々の食事や洗濯、入浴もままならない程で、
すれ違うだけで悪臭がしたと言う。

このように、良い噂を聞かない人物であったが、その生活から想像するに、
身寄りの無い低所得者であったことが伺える。

長引く不況の中で、就労のタイミングを逃した方が増えているのだろう。

最寄のスーパーやバスの中で出会う人の中に、
長期に渡って入浴をしていないであろう臭いに出会うことが多くなった。

こうした臭いが気になるということは、社会全体が衛生的になり、
人々の生活意識が変わったことを意味している。

毎日入浴できる人が多数を占める社会になったのは、ほんの半世紀前である。

悪臭に触れずに済むなら、それに越したことはないが、
彼らが少数になったが故に排除されて良いかと言えば、決してそうではない。

身元不明の死体が公園で発見されることがある。

被害者はハウスレスであることが多く、加害者は少年であることが多い。

双方に共通しているのは、社会全体の枠から見たときに、少数派に属するところである。

動機として「社会のゴミを片付けた」と述べた者もあったと聞くが、
どういった価値観をもって生きていれば、人間をゴミ扱いできるのだろうか。

人間とは不思議なもので、自分がされたように他人に対して振舞うところがある。

親切を受ければ親切を返し、逆もまた然り。悟りを啓く境地に達した人物であれば話は別だが、
多くの場合、自分の行動が道徳的であるか否か、理に適っているか否かは二の次である。

先の少年に話を戻せば、彼ら自身、社会の枠の中でゴミ扱いされてきたのである。

学業か、或いはスポーツか。直接の原因は分からないが、
学校という枠の中で、存在価値を十分に認められることなく、
或いは自己を発揮する機会を得ることなく暮らしてきたのだろう。

不適応の言葉で片付けることもできるが、
家に篭ればひきこもり、外に出れば非行少年にカテゴライズされる存在にされてきたのである。

社会に占める割合の多い価値観は、その社会に於ける正義となる。

正義を盾とする行動は、実際のところ無責任になれる。
何故なら「皆が思っていること」を行動原理とできるからである。

行動原理をもつこと自体は自律的だが、
「皆が思っていること」を基幹としている時点で極めて他律的である。

「暗黙の了解に従い」或いは「空気を読んで」行動を決定することは、
個々の価値観を踏みにじる世論を作り上げ、自らそれに流されることになる。

個々の違いと、違いに至る原因への気付き。
それから多様な価値観を受け入れる寛容さ。

数に任せた正義に靡くより、自己を保って共存したいものである。
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