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Twitterまとめ投稿 2019/07/03


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Twitterまとめ投稿 2019/07/02


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Twitterまとめ投稿 2019/07/01


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Twitterまとめ投稿 2019/06/30


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競争して生き残る時代から、全員が生き残る方策を求める時代へと移った。

個の尊重とは何か?

「なぜ特別支援は特別視されるのか?」
「なぜ定型発達であることを重視するのか?」

ASDとかADHDとか診断がつくのを嫌がる保護者が居るのはなぜか?
我が子に診断がつくのを嫌がるのはなぜか?

診断があってもなくても、子どもの実態は変わらない。

診断があれば手厚い支援を受けられるし、相談の機会も増えるのに、抵抗を示す保護者が多い。「夫(又は妻)が分かってくれない」「私は良いんですけど親(子の祖父母)が」というケースから、保護者自身が「支援は受けたいですが、うちの子は普通なんです」と言ってしまうケースまである。社会の受け皿が不十分なことに加え、保護者自身が偏見をもっていて、しかも偏見だと思っていないのでたちが悪い。「うちの子は手がかかるから、私の生活のために何とかしてほしい」と言うのが本音だろう。そう思うこと自体が悪いとは思わない。親である前に一人の人間なのだ。どういう経緯かは分からないが、偏見を抱いたまま親になってしまった一人の大人なのだ。

日本の学校制度は、定型発達を基準に組み立てられている(心理検査とは、定型発達を基準に、どのくらい差異があるかを見るものである)。そもそも定型とはなにか?ある生活年齢で区切ったとき、半数以上に見られる発達段階であり、同じ年齢の人間を集めたときの半数以上、つまりマジョリティへの該当を意味する。マジョリティの理論は、マイノリティを排除する。ある授業で、一人の生徒が、先生の間違いを指摘した時、他の生徒が一斉にその子をあざ笑ったことがある。「先生が間違うはずがない」「生徒が先生に指摘してはいけない」といった暗黙のルールが形成され、その空気を読んで従う習性が、既に小学校時代に身に付くというのだから、恐ろしいものである。その先生は「大人だって間違えることはある」と言える人物だったからまだ良かったが、「空気を読めない子」「みんなと違う子」というレッテルを貼られる(ラベリング)危険があった。こうした場面は少なくないが、注意深い人物でなければ、それが問題であると指摘されるまで気付かないので、偏見の形成を助長していく。

ある年齢層の約半数が、似たような価値観に染まっている。「みんなそう言っている」「そんなことを言っている人は、私の周りには居ない」となれば、それが間違った内容だったとしても、誰も指摘しない(できない)ので問題にされない。従って「特別支援を受けるのは一部の変わった子」という価値観に染まった世代は、そこに一切の疑問をもたないのだ。

SNSの普及によって、ジェネレーションギャップが解消されつつある。「私と同じように感じている人が他にもいる」と、これまではマイノリティに留まっていた層が、マジョリティを形成しやすく成った為だ。世代を超えて多様な考え方が共有されるようになったことは、一つの進歩である。「それは偏見だ」と気付いた者同士が連携して、社会に訴えられるようになったことは喜ばしい。

但し、これは功罪が大きい。偏見をもっている側も、同じように繋がるからだ。似たような価値観同士でまとまれば、考え方を尖らせる(更に偏狭になる)。

私立幼稚園が、特別支援の対象になりそうな子の入園を、拒否するようになってきた。「対応できる職員(専門職)がいない」というのがその理由だが、少子化の昨今、一人でも多くの入園を目指す中で、明らかな選別を宣言するのは何故か。「そういう子と同じクラスにしてほしくない」という、保護者層が力をもった為である(専門職の不足は園の運営理念や雇用・育成の問題なのでここでは省く)。「働かなければやっていけない。とにかく預かって欲しい」という層が増えて、保育所の待機児童問題が起こっている(これは国の失策)一方で、教育機関である幼稚園では、否定型発達に対する排除が行われている。

SNSがもたらしたのは、似たような価値観同士をまとめ上げ、異なる価値観を対立させる事態であった。自分の考えと似た仲間を見付けやすくなった一方で、自分で視野を広げよう、他の考え方に触れようと意識しなければ、他の考え方や価値観は、関連項目に表示されないので「自分の常識以外は非常識」という視野狭窄に陥りやすい。

余程の人物でない限り、人は常に心の安定を求める。一人一人の価値観は異なって当然であり、異なる意見に触れたなら、視野を広げるチャンスだが、そうせず白黒つけたがり、結論を急ぐのはその為である。心の安定を脅かすものを早急に排除したいのだ。対話し歩み寄れる人物と、遮断しその場を凌ぐ人物とどちらが多いか?圧倒的に後者である。自身の生活を守り、日々を精一杯暮らすのが、我々一般人なのだ。

定型発達を基準に組み立てた学校制度は、多様性を否定した。「みんなちがってみんないい」と学校の先生が言う時、「勉強のできない者は落ちこぼれて良い」とほぼ同義である。学業成績は、知識の定着を図るものであり、人間性を定めるものではない。得手不得手はあって当たり前。人の生存戦略の基本である。

一致団結とか一つの正解が好きな国が、今後、国際社会で活躍しようと思うのなら、学校で教えるべきは単独勝利の方程式ではない。一人一人の個性を認め、そこに社会的な価値を示し、互いに共有することである。
タグ:就学
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共通テーマ:学校

Twitterまとめ投稿 2019/06/29


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Twitterまとめ投稿 2019/06/28


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Twitterまとめ投稿 2019/06/25


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