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10月「ふあんとぎねん」

プリンターが詰まって大変だった、と後から聞いた。

事の起こりは新しいプリンターでラベル用紙を初めて使ったことである。
スペック上は20枚までセット可能とあったので、必要な枚数(10枚)だけ入れたのだが、
何故か紙詰まりを起こした。

カセットを開いても、特におかしいところは見当たらないので、1枚ずつ試したところ、通常通り印刷ができた。そこで残りの7枚を入れたところ、問題なく稼動したので、作業を終えて通常業務に戻ったのだが、その後に別の職員が使ったところ、紙詰まりが起こったらしい。

状況を聞いて改めて確認してみると、カセットのサイズが僅かにずれていて、給紙口がせばまっていたことが分かった。使用した用紙のサイズが同じだったので、朝にもこれと同じことが起こっていたのだと納得したのだが、話はそれで終わらなかった。

というのは、私が使った後でそのような事態になったので、
私が誤った操作をしたのではないかと疑われたのだった。

私としては通常通り印刷ができることを確認してからその場を離れたので、原因に気付けなかったことに落ち度があると言われたらその通りではあるが、そのような疑いをかけられる言われはないだろうと、腑に落ちない思いで仕事を終えた。

納得がいかなかったのは、
たまたま居合わせてそれぞれの様子を別に見ていた部署の責任者から、
かなり時間が経った後で、疑いの形で伝えられたことである。

曰く「使ったものは元通りにしておくのが常識だ」とのことである。

私としては。普段からそのようにしているし、
今回の件についても、原因こそ突き止められなかったものの、稼動を確認しているので、
そのような言われ方をされたことには納得がいかなかった。

責任者としての立場上、
部下に対して注意を促す意味があってのことだろうとは思ったものの、
たまたま居合わせた状況をそのように解釈したのは何故なのだろう。

振り返って考えると、責任者とは言っても、
機材に精通しているわけではないし、部下が普段どのように働いているのかを
全て把握しているわけでもない。

今回の状況も、少し気を付けて見ていれば、
私が確認を終えたことには気付かなかったとしても、
印刷が出来ていたことには気が付いた筈である。

プリンターの紙詰まりは時々起こることで、使える状態に戻らない場合には報告をするが、
その場で解決されたのであれば、報告は必要とされなかった。
その体制が良くなかったと言えばそうとも言える。

しかし、これまで問題とされなかったことが、何故今回はこのような形となったのか?

機材が新しくなり、何かあった場合に対処方法が分からないかも知れないという
不安感がそこにはあったのではないかと、私は考えている。

不測の事態に備えるという言葉がある。

想定外だったという言い逃れが生まれる我が国でも
「何が起こるか分からないが、その場合でも対処できるように準備をしておく」という、
想定外を想定するという意識を過去にはもっていた。
勤勉さに重きを置いた我が国らしい意識である。

ところが、そうした意識は現在薄れている。

想定外の事態に対応出来ないのがその証拠であるが、何故このようなことになったのだろう。

「なぜ落書きをしてはいけないか?」という問題が出されたことがある。

各国の学生が何らかの考えを記述する中、我が国の学生の多くは白紙で提出したそうである。

知識を問う、所謂正解のある問題の正答率は高かったとのことであるが、
それ以外は答えなかったらしい。

この事態に対する一つの解釈は
「日本人は、何か分からないことが起こると、何もしない」というものである。

賛否はあるだろうが、現在の社会を見ていると、
完全に否定することはできないように思われる。

自分にとっては理解のできないことが起こったとき、
そこで試行錯誤するという態度が養われておらず、
答えの決まっているものをただ踏襲するだけなのだ。

心の動きに視線を向ければ、
決まっていることは学習の対象であり、安心材料となるが、
訳の分からないことは、不安材料に留まる、ということである。

不安をもったとき、どのように対処するだろうか。

現実的には、事態を分析して課題を見つけ、必要な対応を取る、という対処になる筈だが、
実際のところは、不安を解消するために、安心材料を探すことに奔走する姿がある。

手っ取り早いのは、誰かを悪者にすることである。
例え仮想でも、不安の原因を想定すると、人の心は安心を得ることができる。

不調を起こした機材を分解して修理するより、メーカーに責任を求めた方が簡単であり、
部下が怪我をしたら、設備環境を見直すより、本人の不注意を責めるだけである。

不安の原因を仮想し、それに対して疑いの目を向けるだけで、
あらゆる不安要素の原因を、そこに繋げて安心することができるのである。

問題を解決するなら、このような思考は全く意味がないのであるが、
人は優先順位をよく間違える。

不安に対して疑念で対処する限り、そこには何の展望も生まれないのだが、
正解のない問題を解くという教育をしてこなかった我が国の人間は、
不安に対して創造を以って対処するということを忘れてしまったようである。
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