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11月「あしなみとわたし」

パーティを組んで山に登るとき、先頭に経つのは熟練者だ。

山に慣れた者は、登るコツをよく知っているので、そうでない者に比べたら、相当な速さで登ることができるだろう。


では、そんな熟練者を先頭にしたパーティは、熟練者を追いかけるようにして山を登るのだろうか。


答えはNoである。


登山の目的は何か?それは全員が登頂に成功することである。山道に慣れた者もそうでない者も、全員が登頂に成功しようと思ったら、どのような速さで登ったら良いだろうか。答えは最も山道に慣れていない者の速さである。熟練者はその辺りをよく心得ているが、私達はつい、平均かそれ以上の速さを求めてしまいがちである。


最も慣れていない者に合わせるのは、効率が悪いのではないか?むしろ、遅い者に努力を求めるべきではないかという意見が出ることもあるが、速いか遅いかというのは他人同士で比較した捉えであって、当人の努力の有無とは全く関係がない。山に登ろうという志を共にした仲間同士で、目的はあくまで登頂の成功なのだから、速さを問題にすること自体が間違いなのである。


翻って、日常の暮らしを見つめてみよう。


分かりやすいところで、仕事に打ち込む姿勢を例に挙げてみると、かなりの割合で、能力の比較が、努力の物差しで比較されていることに気付く。

もって生まれた能力は人それぞれであり、同じ時間内に可能な仕事量は人それぞれである。部下にノルマを課す場合、最も理想的なのは、個々の能力に合った量だが、これはなかなか難しい。そこでとられるのが、社会に対する責任と企業自体の維持に対して、必要最低限な量の設定である。

仕事と言うものが、社会を維持するための役割分担である以上、それに相応しい人材を求めるのは当然であるが、ノルマの概念を持ち出した途端、最も重要な資源である人そのものが、比較価値付けられるようになる。


少し古い話題になるが、介護保険制度が導入されたとき、それまではどこか曖昧であったサービスの提供が、ポイント制になった。

サービスを提供するのは、あくまで人だから、利用者の話をよく聞く人も居れば、身辺のことに細かに気が付いて世話を焼く人も居て、それらはサービスの枠に入っていないものながら、利用者にとって好感のもてる支援の姿勢となっていた。しかし、それは支援者が好意で行っていることであって、提供すべきサービスとしての評価の対象ではない(仕事上の責任として求められる範疇にない)。また、例え好感のもてる支援であっても、それを全員に行えるのかと言えばそうではなく、あくまで個々の対応に限られる。

必要最低限の仕事ということを先に述べたが、個人裁量で行われるこれらの支援は、当然ながら、実施する責任を問われるものではない。しかし、責任を問われないとしても、利用者間に(規定外の部分での)不平等感が生まれるのは、こうした部分からである。

仕事は仕事と割り切って、決められたことを確実に行っていれば、それ以上責任を問われることは無い筈だが、利用者あっての仕事である以上、規定外のサービスがどこかで行われていたら、それを仕事として求められる土壌が形成される。一番簡単なのは、利用者の求める内容を、サービスの評価枠に組み込んでしまい、全員が仕事として実施することである。


しかし、それは同時に、時間外勤務を常態化させることにもなる。
何故なら、現状で既に、勤務時間内に達成できる仕事量が、限界にあるからだ。


仕事の目的は、社会への貢献である。それは、サービスを提供すると同時に、組織自体の維持も実現しなければならない。

組織を形成しているのは、人である。一日にこなすべき仕事量を必要最低限のものに設定する場合、どこを基準とするだろうか。仕事の質を維持向上させる姿勢は素晴らしいが、適性があるとして採用した人間に無理が掛かるようでは、組織としての継続が難しくなる。にも関わらず、それは努力の名の下に、平均かそれ以上の成果を求めるところに落ち着きがちである。

絶対量として増加した仕事を、努力の名の下にノルマとして課した場合、それをどこで消化するのか?時間外勤務である。最低限のノルマという位置付けである以上、出来て当たり前という認識だから、時間外に働いても何の保障もされないのが実態である。このように、最低限の枠を広げて、組織全体の負担を増してしまうのは、大抵一部の優秀な人間なのだが、誰かが一人やり始めると、誰でもできると勘違いしてしまうのが、人間の浅はかなところである。


時間外労働が発生するということは、人としての暮らしが迫害されることを意味する。


スポーツの世界に於いて、フライングは失格だが、規定外・時間外に働いて出した成果が評価されて、全体の基準が底上げされ、過労に伴う離職者・死亡者を生み出すのは、この国の不思議なところである(努力が評価されること自体は良いのだが、だからと言って義務化し、元々能力の異なる全員に、同等の姿勢や成果を求めるのはおかしい)。


今後、組織の担い手である人材そのものが減少し、只でさえ個人の負担が大きくなるのだが、求められる仕事量が精選されるのではなく、向上の名の下に、増大の一途を辿る実態を見ていると、このパーティは全滅するのではないかと思えて、暗い気分になる。こうした特性に早くから気付き、海外展開を図っている大手企業の先見には敬意を払うが、生まれ育った国が衰退していくのを目の当たりにするのは、やはり悲しいものがある。古い言い回しだが、Noと言える日本人は、まさに国内に求められているのであった。
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