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1月「かめんとわたし」

こんな話を聞いた。

「友達のフェイスブックを見たら、全然人格が違って人間不信になった」。

何でも、これまで実際に付き合ってきた印象と、インターネット上の人格が全く異なり、どちらを信じたら良いか分からなくなったとのことである。

「リア充」という言葉が世間に出回っている。

これは「リアル(現実世界)の充実」を意味し「バーチャル(仮想世界)」と対になっている。
バーチャルとは、インターネットの普及に伴って生まれた言葉である。

インターネット上では、自分の姿を見せることもできるが、見せないこともできるため、非常に匿名性の高い空間となり易い。匿名性の高い空間では、本人かそうでないかを確認する手段が限られるため、他人を演じることも可能である。

モラルが問われるところでもあるが、真に残念ながら、仮想空間であるのを良いことに、無責任な発言を行う利用者も少なからずある。リアルの充実を得られない不満を、バーチャルの世界に吐き出すことによって「仮想空間の充実」を図っていると言えるかも知れない。また、そこまでのことはしないとしても、現実とも繋がりがあるため、面と向かっては言いにくいことをこの世界で伝えることで、関係性の充足を図る向きもあるだろう。

何れにせよ、匿名性という仮面は、発言に対する責任の、逃げ道を生んでいると言える。無責任な発言は許しがたいが、人は常に強靭な神経をもって生きている訳ではない。実害を生むような内容ならともかく、多少仮面を被って、少し違う自分をアピールすることも、時には必要だろう。

心理学には「ジョハリの窓」という喩がある。

自分が何者かを知る上で、4つの可能性があるという喩えで


「自分も相手も知っている自分」


「相手から見た自分」


「自分だけが知っている自分」


「自分も相手も知らない自分」を言う。


人間の価値を決めるのは、本人ではなく第三者である、というのは良く言われることである。

本人がどういう思いをもっていたとしても、結局は見た目の行動で判断される、ということを言い、

逆に言えば、他人を捉える目の質や度量によって他人を生かしも殺しもするため、

捉える側の人間性が問われるところでもあるが、ここでフェイスブックの話に戻りたい。

「全然人格が違って人間不信になった」とあるが、これはどういうことだろうか。

「自分が思っていたのと違って不安になった」のであれば、それは単に相手のことをそれ程知らなかっただけの話である。演じている可能性も否定しきれないが、そもそも現実の相手とフェイスブック上の性格のどちらが真実かは確かめようがない。何故なら現実でも演じることは可能だからだ。

人目を非常に気にする価値観で育った人であれば、本当の自分を人前に曝け出す機会をもつことが無かったかも知れない。かと言っていつまでも本当の自分(人前に出す機会に恵まれない自分)を抱えたままでいられるものでもない。そこに匿名性が加われば、周りにとっては意外な人格が顔を出しても、全く不思議ではない。

初めから存在していたのである。

ここで何を問題とするかと言えば、現実と仮想との繋がりの度合いである。

インターネット上は仮想空間であるが、その向こう側に居るのは現実の人間である。

相手が演技している可能性も含めて、自分がどの程度想定し、対応できるのか。

そういうことが問われるのではないだろうか。
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