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7月「ちいきのふうど」

ある日の休憩時間のこと、同僚がこんな話をした。

県外に引っ越した友人から電話があり、夜中まで相談に乗って大変だったとのことである。

内容は、子どもと学校とでトラブルがあり、相談できる相手が身近にいないとのこと。

同僚は、担当教員、或いは学校長など、窓口となる職員に話したらどうかと答えたところ、
叱責されるばかりで言い分を分かってもらえないとの返事で、

それなら他の保護者はどうかと尋ねたら、
うちも同じようなものだとの返事だったそうである。


ここまでの内容であれば、いかにも学校が頑なで、対応が悪いという印象を受ける。
しかし、話をよく聞けば、問題になったのは“万引き”のことであった。

更に言えば「うちも同じようなものだった」が示していたのは、学校側の対応ではなく、
“万引きをすること”であったから驚いた。


遅い時間まで相談に乗っていた同僚を労って、その話は終わったものの、
次のようなことが腑に落ちなかった。

一つは「うちも同じようなものだった」という返事を聞いたときに
「そんなものなのか」と、相談をしたその人が納得したことである。

子どもは将来性があり、守られるべき存在であるという観点から少年法があるので
“万引き”という名前で呼ばれているが、これは窃盗であり、犯罪である。

それが当たり前に行われる風土も問題だが、周りがそう言ったからといって、
「じゃあうちの子がやってもおかしくない」と納得する姿勢は納得いかない。

「赤信号、皆で渡れば怖くない」という、民主主義(或いは多数決)への皮肉を利かせた
古いジョークがあったが、犯罪は犯罪であり、風土に関わらず許されて良い行為ではない。

誰しも事故や事件に対して「自分の身に起こってもおかしくない」と謙虚に捉え、
生活を律するのであれば素晴らしいが、

「皆がやっているなら同じことをしても許される」などと開き直るのは以ての外である。

その人が住む地域に実際に住んだことは無いので、窃盗が日常的に行われる風土が
如何にして形成されたのかは知る由も無い。

だからと言って犯罪が許される理由にはならない。

引っ越した新参者として、地域に馴染む必要はあるだろうが、
そのような文化の中で育っていく我が子の将来のことはどう考えているのだろう。


そこで二つ目に気になったのが、学校側の対応である。

窃盗が発生する以前から、対応のおかしなところは無かったのか。

と言うのは、事件・事故に対して学校側が頑なになるのは今に始まったことでは無い
(現場の職員には後ろ盾となるものが無いので、形式的に対応せざるを得ない)。

重要なのは、事件が発生する以前に、
保護者との連携を取ることができていたのかどうかである。

信頼関係があれば、事件の発生を防げたとまでは言わないが、
少なくとも、事情も聞かずに叱責するような対応はしないだろう。

断片的な情報だが、その子の通う学校は、
例えば違う学年のクラスには立ち入らないなど規律が厳しく、

その子にとっては、馴染みにくいものだったらしい。

私自身の学生生活を振り返れば他の学年、或いは同じ学年であっても、
他のクラスにわざわざ出向くような用事は思いつかないが、

社会性を培うという観点からすれば、
校則で取り締まるようなことではないだろう。

友人らと部活動や学外で会うのに問題が無いように、
必要があれば学内で会うことも問題ない。

これが校則で取り締まられ、また違反した生徒は必ず叱責されるとのことから、
次のことが予想される。

取り締まらなければトラブルが発生する校風である。
つまり、いたずらや盗難が起こる、或いは起こり得ると言うことである。

生徒指導に当たる職員も居るだろうが、それだけでは対応が間に合わないので、
犯罪が発生し得る状況を生まないよう、学年間の交流を禁止したのであろう。

その子は転校した好奇心から、他のクラスを見に行って叱責されたらしい。

「気になったから見に行った」と説明しても聞き入れられず、
ただ叱責されたとのことである。

私は現場に居合わせた訳ではなく、
本人の言い分を聞いたという内容を同僚の口から聞いたに過ぎない。

従って、教師と生徒の間で、このように
一方的な指導が行われたのが事実かどうかは確かめようがないが、

窃盗が許される風土と合わせて考えると、
何としても校内の安全を守りたい(トラブルを起こしたくない)という態度が
このような形の指導として現われても、何ら不思議はないと思えてくる。

この後にも教師から目を付けられる機会が何度かあり(全て誤解)、学校に馴染めないまま、
同じく学校に馴染まない仲間と出会い、使い走りをさせられるようになったのが最近。

その後、今回の窃盗事件に至ったのであった。


教師の役割は、子どもの将来を考えることである。
将来を考えるという点では、保護者も同じである。

もっと言えば、未来を考えるなら、
先に生まれたものが後に生まれたもののために考え、行動するのが当然である。

従って、学習の機会を保障するのは大人の役割であり、
そこには知識と道徳とが含まれる。

窃盗という行為に、将来への展望は全く無い。

盗んだ本人にとっての利益は、極めて一時的なものである。

販売者にとっては、表示価格がそのまま売り上げになる訳ではないため、
盗難があればその何倍も販売しなければ利益を上げられない。

小さな店舗では、そのまま閉店に追いやられることもある。
これは就職窓口が縮小することを意味する。

子どもが暮らしの基盤とする今後の社会を展望するなら、
個々人が目先の利益を求めることを良しとする風土に馴染ませることは、
正しい選択とは言えないだろう。

学校側の対応が形式的な理由も、これまでのことがあった為だとは思うが、
大人に対する不信感を煽るという点では、教育的だとは思えない。

秩序を守るために必要なことを伝えるのは大切であるが、
一方的に「駄目なものは駄目」と教えるだけでは伝わらない。

理由も分からず守れといわれても納得いかないというより、

信頼関係のない相手には、
心を寄せることが極めて難しいためである。

「良き法律家は悪しき隣人」の喩えが伝えているように、
事実関係だけでは、わだかまりが残るのである。


風土は、何世代にも渡る、常識が積み重なって作られる。

常識は、特定の世代の中の、多数派の認識に過ぎない。

認識を変えるものは、行動である。

人間関係を重んじるなら、風土に馴染むことは悪くない。
しかし、風土に馴染むことが、未来に繋がるとは限らない。

他人の認識を変えることは難しいが、
自ら気付き、求め、行動を選択することは出来る。

私たちが、未来を担う子どもたちに残すことのできる財産は、
状況に対して柔軟に考え、対応する姿勢だけである。

子どもが親を見て育つなら、
将来に向けて考え、繋がる行動を良しとする風土を築きたいものである。
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