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3月「てきどなかかわり」

住み始めて10年になろうというアパートだが、
早朝から夜半と言う仕事柄、他の住人と会うことは殆ど無い。

職場の行き帰りに出会うのは、むしろ近所の人々で、
互いに会えば挨拶を交わし、それぞれの生活へと戻って行く。

休日に出掛けることを除けば、
帰宅後に誰かと会うことはまず無かったと言える。


ある晩のこと、ドアがノックされた。
出てみると、初めて見る顔である。

話を聞けば階下の住人で、
最近天井の音が気になるので、上の階の住人に注意をしに来たとのことだった。

狭いアパートのことなので、音にはお互い気を付けたいところ。
特段身に覚えはなかったが、気が付かぬうちに迷惑を掛けていたのかもしれない。

それは申し訳なかったと謝罪し、これも何かの縁としばらく話をした。

よくよく話を聞けば、どうやら私の家のお隣さんがよく音を立てているとのことで、
先日注意をしたら「隣じゃないですか?」と、我が家を示したらしい。

お隣さんと言えば、年度初めの週末、たまたま家に居るときにやってきて、
引越しの挨拶だと言って、粗品をもってきた学生さんである。

それ以来、お互い合うことは無かったが、洗濯物を取り込むときに明かりが漏れていたり、
夜中に通路を横切る音がしたりしていたから、元気にはしていたのだろう。

察するに初めての一人暮らしで、隣家に音が漏れること、床下に響くことなどには、
気が付かなかったのかも知れない。

因みに私の実家は天井が薄かったので、
寝ているときに家人が階下を行き来すれば音がする生活を送っていた。

その結果、物音には気付くものの、
それが気になって困る、ということは今では殆ど無い。

とは言え、階下の方はそれで困っているのだから、お隣さんのこととは別に、
私自身も気を付けようと、気持ちを改めたことであった。


それにしても、
現在のアパートの安全性、匿名性の高さは大したものである。

と言うのも、今回の学生さんの件が無ければ、
階下の方と会うことは一生無かったかも知れないのだ。

その方がいつから住んで見えるのかは分からないが、
気になれば注意しに見えると仰っていたことを考えると、

これまでに全く接点が無かったことは、
この10年の間、

私が余程模範的に暮らしていて注意に値しなかったか、
存在そのものを知る機会がなかったか、と解釈することができなくもない。


個人情報を守るために、知り合いでもない限り、住人が互いのことを知ることはまずなく、
何かあった場合は大家さんが頼りである。

この10年の間に人の出入りは何度かあったが、生活時間が違うので、
誰がどこでどういう暮らしをしているのかなど、互いに知る由さえないのだ。

越してきてから最初の数年、
良く散歩をしている高齢の方があったが、いつからか姿を見なくなった。

何かあったのではと思っても、そもそも互いに名前も知らない。
言ってみれば、街中の交差点ですれ違う、赤の他人と同じである。

お隣さんに話を戻せば、面識の無い階下の方から何度も注意を受けたのを流石に背負い切れず、
他所へ向けた矛先が、隣の我が家だった訳である。

インターネット上では強気になって書き込みを行う方は、
そこが匿名性の高い空間であり、責任の追及を逃れ易いと考えている。

今回の場合、自分だけではないと言いたくて、
良く知らない相手の住む部屋を指したのだろう。

もしかしたら、ご近所さんから注意だけでなく、声を掛けられること自体に慣れておらず、
自分ばかりが注意されるのを理不尽と感じて行動したのかも知れない。


バスは公共性の高い乗り物である。仕事柄いつも利用しているが、
降車の際に挨拶を繰り返した結果、何人かの運転手さんに顔を覚えられた。

長話をする訳ではないものの、面識があれば挨拶を交わす。

始めは互いに面識は無かったが、
遭遇に意味付けを重ねていけば、そこに関係が生まれる。

遭遇に意味をもたせなければ、毎日会っている同僚も赤の他人であり、
お互いに自分の職務のみをこなしていれば、関係が深まることも無い。


音源の責任を我が家に求めた学生さんに限らず、

我が身に理不尽が訪れたとき、多くの人は疑心暗鬼となり、
良く知らない相手に偏見を向けるようになる。

事実を冷静に受け止めるよりも、感情的に受け止めて、
事実の解決よりも、先に目の前の不安を解消しようとするのである。

多くの場合は誤解なのだが、
自分にとって都合の良い「理不尽を与える理由」があった方が楽に自身を正当化し、
矛先を向けることができる。

人間関係が破綻し、泥仕合の展開となる場合、
既に土壌は作られていたと考えるべきだろう。


私が提案したいのは、互いに心地よく暮らすために、
どれだけ行動できるのかを、各自が自覚することである。

この場合の行動とは、待つこと、譲ることを含む。

それには全員が全体を見渡す意識をもち、
同時に己の力量を知り、

自分以外の誰かのために
何ができるのかを考えることである。

ウィンドウ越しではなく、
そこに生きた人間が居ることに意識を向けて、

垣根を越えた働きを、お互いにしたいものである。
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